「罰」という指導方法を失った中国の教師たち。

罰として廊下に立たせることや、校庭を走らせることは、立派な体罰!

1970年代や80年代生まれのアラフィー、アラフォーの中には、学生時代に教師に罰として廊下に立たされたり、校庭を走らされたりした思い出がある方もいるだろう。日本ではかつて、廊下に立たせる罰や、校庭を走らせる罰は一般的で、体罰とは認識されていなかった。しかし現在では、このような罰は「肉体的苦痛を与えるような懲戒」として周知されている。

中国でも同様で、明らかな体罰はもちろん、このようなかつてはメジャーだった教師の指導としての罰も、体罰の一種としてみなされるようになっている。結果、教師たちは、かつての威厳を喪失してしまい、威厳のない教師がどのように教育をしていくべきか、規律に対する教育の模索が続いているという。

中国メディアの今日頭条は、「現在の子供たちはみな精神的に弱く、少しの罰でも立ち直れない。また彼らの両親の中には何かあるとすぐに不満を持ち、教師にクレームをするので、教師たちは指導に対し、非常に神経質になっている。かつての威厳は影をひそめ、やる気のない教師が増加している」という記事を掲載した。

記事はまず「教育現場において、規律の指導をしないということは教育の意味があるのか」と疑問視している。また「指導者は正しい指導をするために、罰を与える権利があるべきだ」と指摘している。

かつての教師の威厳を保ち、学生たちに規則と規律を教えるためには、それなりの罰が必要であると強調している。教師は本来、指導する立場である。指導する立場の人間には威厳が必要である。

罰という指導方法を失い、威厳がなくなった教師たちは、子供を教育することに消極的になっている。子供たちは成長し、社会に出た時、厳しい指導がない環境下で育ったため、社会の規律を守る大切さを理解できない大人になってしまう可能性もある。記事は結論として、「教師に懲罰権を与えるよう法制化すべきだ」と締めくくっている。

日本でも体罰の基準は、時代とともに変わってきているが、体罰は絶対に許さないという風潮は年々強くなっているように感じる。結果、教師の威厳の喪失から、学級崩壊等の新たな問題が出てきたとしても、やはり体罰は許してはならないと考える人が多数であろう。

記事では、教師の威厳が年々なくなっていると指摘しているが、日本の教育現場から見れば、まだまだ中国の教育現場の教師の方が威厳を保っているように見受けられる。中国の子供たちは、より良い学校に進学するため、より良い職に就くために必死で勉強している。体罰で子供をコントロールするのではなく、子供たちに将来の目標を持たせ、将来の姿をイメージさせ、それに向かって努力するよう支援するのが、理想的な教育だと感じる。

異国の者が他国の教育方針に口をはさむべきではないと思いつつも、できれば「教師に懲罰権が与えられる法制化」は実現して欲しくない。

参考記事:https://www.toutiao.com/a6740516479738839566/?tt_from=weixin&utm_campaign=client_share&wxshare_count=1&timestamp=1569484005&app=news_article&utm_source=weixin&utm_medium=toutiao_ios&req_id=2019092615464501002607708811373687&group_id=6740516479738839566

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